2003/09/01 | |
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お陰様でウチは2003/8/31決算を終え、15期めを今日迎えました。独立開業から丸18年が過ぎました。 だからどうなの?と言われても困りますが、幾度となくピンチを迎えながらもなんとか乗り越えてきたなあ と私自身は感慨深いものがあるわけです。 一人で始めた仕事です。父はごく普通のサラリーマンでしたし身内にこういう商売の人も居ませんでしたから反対する人もいましたが、若さゆえ「なんとかなる」という漠然とした信念のみで”見切り発進”でした。結婚して2年目、まだ子供はいませんでしたがどうなるあてもない無謀な「独立」に女房の不安は大きかったことでしょう。 立ち上げ当初の資本金はわずか50万円でした。15万の中古軽トラックと脚立やスコップなどの最小限の道具を買ってスタートしたものの、最初から仕事があるはずもなく愛妻弁当を持って家は出るが行く当てもなく、かといって家でゴロゴロしているわけにもいかず頭の中は真っ白で情けなくて辛い日々。1ヶ月の総売上げがわずか3万円などという、今となっては笑い話の時もありました。 そんな私を最初に救ってくれたのは知人の紹介での手伝い(手間請け)仕事でした。自分の仕事が無いとその造園屋さんに行っては仕事をさせてもらい手間代を頂きました。最初の半年近くはこれで何とか食いつないでいけたのです。その知人と造園屋さんは今でも私の大事な恩人です。 独立直前まで私が勤めていた造園会社は隣の区の大きな会社でした。高校生の頃から休みにはアルバイトとして、大学を出てからは社員としてお世話になっていました。個人邸の手入れと造園に加えて園芸店をやっていましたが、やがて公共工事に参入するという方向に転換し始めました。公共工事を優先することでそれまでお付き合いのあった個人のお客さんがないがしろにされる場面を見るにつけ、私は自分の方向性を考えざるを得ませんでした。 個人のお客さんとこれから先もお付き合いしていきたい という希望で退職しました。とはいえ、またどこかの造園会社に勤める気もなく、「独立するなら木下さんに今後をお願いしたい」というお客様の後押しもあって自分でやっていくしかないと決断したわけです。15軒ほどのお客さんが「モトデ」となったでしょうか。もちろん勤めていた会社のお客様を横取りしていくという行為そのものは許されるものではありません。これについては言い訳の余地はないと思いますが、泥棒をしてまでも手に入れたかったものはお金ではなく自分の信念への「足がかり」であったと今は思うのです。 その会社の社長とはその時険悪なムードで退社したことは言うまでもありませんが、現在では一緒に呑んだり仕事の愚痴りあいをしたり懇意にさせていただいています。今にして思えば、痛みを伴わない「産み」はないのです。 手伝い仕事とわずかな顧客でなんとか食いつないでいる間に少しずつ新規のお客さんや取引先が増え、やがて自分一人ではやりきれない大きな仕事も舞い込むようになってきました。そうなると今度は人手が必要になってきます。 一人二人と人を雇い仕事を増やしていきました。ただ、大手の造園会社からの「下請け業者にならないか?」という誘いには当初からお断りしてきました。「元請け会社の為に働くんじゃない、最後にお金を払う個人のお客さんの為に汗を流したいんだ」という信念は独立当初も今も変わらない私の「筋」です。「仕事もないのに大見栄張ってどうするの!」と女房にもたしなめられましたがこれだけはどうしても譲れない部分でしたし、今にして思えばウチがここまでやってこれたのは、元請けに頼らないこの方向性と信念があったからではないでしょうか。 工務店やハウスメーカーなどの下請け仕事をまったくしなかったわけではありませんが、”一つの取引先との仕事が全体の売上げの20%を越えたら身を引く”というやり方は崩さずに今までやってきました。従業員が独立すると言えば取引先ごと譲ったり、譲り先が無ければ未練無く一切の取引を全て断ち切ってきました。 バブルの頃はおもしろいように仕事があり、羽振りの良い会社もたくさんありましたが、今ではもう影も形も無くなってしまった取引先がいくつもあります。20%以上の取引をしないことで常に自分で仕事を取るという力を弱めず、たとえ穴が空いてもすぐに修復できる体制を守ってきたのです。 やがて訪れた「バブル崩壊」は世間で騒いでいた時期よりだいぶ遅れて私にも押し寄せてきました。税理士と額を付き合わせて「今ならなんとかゼロで会社をたためる」などという状況でした。せっかく手に入れたマイホームを売ってアパートに越すしかないか というところまで来てしまい、さらに仕事中に腰を痛めて「椎間板ヘルニア」の手術で私が入院するという大アクシデントも重なり、ピンチに立たされました。すでにウチから独立していた者に当時の従業員を預け、面倒を見て貰うことで彼らの給料はなんとかなったものの、仕事が出来ない3ヶ月は私をどんどん追い込み弱気にさせていきました。 いよいよ「廃業」かという失意のどん底で新聞の片隅の記事を女房が指さした。「無料中小企業経営相談」。今さら何を相談したところで、、、と思いつつも恐る恐るドアを叩いてみる。市の中小企業センターで行っているものでした。そこで企業診断士の先生に一喝されて目が覚めたのです。「何を弱気になってる!放っておけば木は茂り草は生える。仕事はすぐそこに転がっているじゃないか、弱気になってぼんやりしていてどうするんだ!」「・・・・」、、、涙が出た。 そこから先は何をどうやってきたのかかよく覚えていません。とにかくその日から変わった。今まで以上にがむしゃらに働いた。一時的に金を借りてしのいだってダメだったでしょう。結局、必要なのは気力だったのです。実に単純なことなのですが、この目に見えない力こそが全てに勝るのです。この先生も私の大事な恩人となりました。 設立して10年を過ぎると会社もようやく落ち着いてきました。仕事を取りに出て歩かなくてもほとんど絶えることなく仕事があり、顧客登録数もいつの間にか900軒を越えました。従業員も増え仕事の幅も広がりました。独立開業から17年が過ぎました。さてこれからどうしましょう。 変わることなく存続させていくのが一番の理想です。私の統率能力からして従業員10人程度の会社の大きさはちょうどいいところで、仕事量も自分が責任を持ちうるぎりぎりのところかと感じています。現状かもう少し小さいくらいが私には適当だと思っています。 こんな話をすると疑い深く私をのぞき込む人や「なぜもっと会社を大きくしようとしない?」と叱咤する人も居るでしょう。でも、私はベンツを乗り回したいわけでもないしゴルフ三昧したいわけでもないのです。「社長」という立場だって欲しかった訳じゃない、なるがままに仕事をやってきたらそうなっていた というだけのことなのです。 今のスケールが丁度良くて居心地が良いのです。当面は「これ以上大きくならないぞ」という信念でやっていきたいと思います。従業員の皆様、女房殿、相変わらず欲のない社長で、低賃金低待遇で申し訳ありませんが、何卒ご理解、ご協力を頂きたい。 先輩や同業者、協力業者、従業員、家族、言うまでもなくたくさんのお客様に支えられて生かされてきた自分。 ニーズに応える努力と責任感、キャパと姿勢を変えない頑固さ、利益に執着しない営業スタンス、それらが存続の秘訣であったと自社を分析しています。 必要以上の欲を持たず、自分が出来うる限りの仕事を真面目に精一杯やっていれば、きっと誰かがそんな自分を活かしてくれる、必要としてくれるものだと私は確信しています。 長文おつきあい、ありがとうございました。 |